大韓民国臨時政府とは
創出された歴史に過ぎません






この記事は、1919年〜1948年まで存在していたされている大韓民国臨時政府について、下記のアメリカ政府の正式外交記録に基づき書きました。

@米国国立公文書館のウェブサイトでの検索
A公表された外交資料(30年で機密指定解除)を年別・国別・テーマ別に整理し、作成された外交関係公表資料ライブラリー(アメリカの2つの大学が協力して作成)

上記を読んだ私の率直な印象は、大韓民国臨時政府は、「歴史の拡張解釈」によって創出されたものに過ぎず、長年にわたり朝鮮にいなかった少数の活動家による朝鮮以外での朝鮮独立運動であるという点につきます。特に、重慶の臨時政府は、朝鮮本土への影響力が皆無であったことが、アメリカの公式外交記録から明確に確認でき、歴史の捏造に等しいです。

にもかかわらず、韓国憲法前文には、「大韓民国臨時政府の法統」と明記されているのです。彼ら朝鮮人の異常性を感じずにはいられません。

「我々朝鮮人は、非常に優れた民族だ!劣った民族である日本人の支配下になることなど本来は絶対にあり得ないはずだ!

そうだ歴史を見ろ!日帝支配後(1910年以降)もちゃんと我々の政府は、海外に存続し続けていたのだ!」


という韓国人の方々の「思い=朝鮮語のハン」が創出した歴史である大韓民国臨時政府について、確実な1次資料による検証の一助になれば幸いです。

なお、

@朝鮮語のハンは、通常は、「恨み」と訳されますが、私は「思い」又は「情念」と訳します。日本語の「恨み」に相当する韓国語は「オギ」だと思います。「オギ」には報復のニュアンスがあります。
A朝鮮人のDNAをフル解析し、他民族と比較したアメリカ政府の準公式発表によれば、朝鮮人は、肉体面では異常です。詳細は、コチラ。重慶にあった当時の大韓民国臨時政府は、彼らの異常性=情念が生み出した幻想です。アメリカ政府の公式外交記録が明確に示しています
B日本人歴史学者の大韓民国臨時政府への標準的評価は、上海にあった当時の臨時政府については、一定の評価ができるが、その後の重慶にあった当時については、単なる朝鮮独立運動の一つのグループに過ぎず臨時政府と呼べる代物ではないというのが、一般的見解です。

(例)武田幸雄編「朝鮮史」より
「3・1運動後 、多くの独立運動家が集結した上海も国外における独立運動の拠点なった。3・1運動のさなかの1919年4月、上海のフランス租界で大韓民国臨時性が樹立された。
(略)国内(=朝鮮本土)との連携組織を作り、機関紙「独立新聞」を発行するなど活発な活動を展開した。(略)臨時政府解体、新組織建設を主張する創造派と臨時政府維持を主張する改造派とが対立して決裂した。この後、臨時政府に結集する勢力は減少し、実質的には独立運動団体の一つに過ぎなくなった」

なお、糟谷憲一他「朝鮮現代史」にも全く同様の記述あります。同書P131
重大なのは、これら日本の韓国史研究の歴史学者が、私がこの記事の資料とした大韓民国臨時政府に関する確実な1次資料であるアメリカ公文書館の公式記録を全然読んですらいない!と推定される点です

C朝鮮人歴史学者の大韓民国臨時政府への見解は、次のとおり。

日帝の朝鮮強占と韓国の独立運動 徐仲錫(大学教授)


「韓国人は長い間独自の国家を営んできた。そして、日本に文化を移植したという点に自負心を持っており、日本文化をさげすみ、(略)1910年の強占以後の激しい差別・抑圧政策によって反日感情が高まり、独立運動も熾烈であった。 (略)韓国人が日本人から受けた最も耐えがたい差別は、日本人が韓国人を劣等視し、侮蔑感をもって韓国人に対したという点だった。

 (略)大韓民国臨時政府が韓国人が少数しか住んでいない国際都市上海に位置したというのは、国務総理李東輝や満州地域からきた議政院議員らが武力闘争を強力に主張し、それで臨時政府でも独立戦争論を採択したとはいえ、どうしても外交が中心になった活動をするようになっていた。(引用者追記:アメリカは、上海臨時政府など把握していない。下記参照)

(略)1940年代に入って独立運動者らは組織の再整備や新たな組織作りをしながら武装力を強化し、日帝の敗戦に備えて建国準備活動に入った。こうした活動を強力に推進したのが、1940年9月重慶に定着した大韓民国臨時政府だった。 (略)臨時政府・韓国独立党は1940年9月に光復軍を創設した。(略)これによって重慶臨時政府は、党(韓国独立党)、政(臨時政府)、軍(光復軍)体制を持つこととなった。光復軍は招募工作で隊員を増やし続け、1940年末には100名を越えるようになった。」

朝鮮人の民族性の特質である欺瞞と形式主義が、明確にみてとれます。@1941年12月時点で、重慶の朝鮮人は200人以下A中国軍と共に、小さな一つの部隊が存在=1個小隊程度せいぜい30〜40人程度
以上2点が、以下のアメリカ政府の公式外交記録で確認できます。



大韓民国臨時政府 1941年まで



大韓民国臨時政府は、通常は、1919年中国上海で設立されたとされており、韓国政府の正式見解でもあります。

しかしながら、米国国立公文書館のウェブサイトで、”Provisional Government of the Republic of Korea"にて検索又は"Korean Provisional Government"にて検索しても、現在確認できる範囲では、アメリカ政府は、大韓民国臨時政府が1919年中国上海で設立されたことなど把握していません。

上に引用した日本人歴史家の一般的評価と異なり、アメリカすらその存在を把握していない臨時政府など常識的にはありえないと感じます。

なお、興味深いのは、主として韓国側資料に依拠した書籍を元に書かれたWikipediaの大韓民国臨時政府では、1933年当時の大韓民国臨時政府の大統領?は、李東寧(1933年9月まで)及び梁起鐸(1933年10月以降)とされていますが、李承晩は、1933年時点で、自らを大韓民国臨時政府の大統領と称している(←リンク先は、米国国立公文書館のウェブサイトの該当ページ)状態であったことです。

そして、アメリカ政府の公式外交記録で、いわゆる”大韓民国臨時政府”が、初めて登場するのは、20年以上経過した1941年12月22日以降です。


大韓民国臨時政府 開戦から1942年まで


1941年12月22日、太平洋戦争開戦直後に、当時のハル国務長官は、次のように、その当時は中国重慶にあったアメリカ大使館のガウス大使に対し、電信にて指示しています。
下記は、画像化されたものであり、画像をクリック・タップで、元の米国国立公文書館のウェブサイトの該当ページを表示します
(以下同じであり、原文の部分引用等は、画像リンク先の米国国立公文書館のウェブサイトからコピペしてください)


上記の要旨は、次のとおりです。

中国重慶にあると主張されている、いわゆる大韓民国臨時政府について下記を調べよ。
@いわゆる大韓民国臨時政府の支持者の広がりと組織
A武装した志願者の数と作戦範囲
B朝鮮本土及び満州に存在しているかもしれない抗日勢力との連携の有無

上記の本国指示に対し、ガウス大使は、電信で下記のように回答しています。


上記の要旨は、次のとおりです

@(いわゆる大韓民国臨時政府についての重慶での)現在の動向は、熱烈なものではない。
A臨時政府の支持者と組織についてはわからない
B重慶付近にいる朝鮮人は、200人を超えていない
C中国軍と共に、武装した朝鮮人志願兵の小さな一つの部隊がある
Ctjo so wang=趙素ミが、重慶での代表であり、外務大臣を名乗っている
Dいわゆる大韓民国臨時政府は、穏健な韓国独立党(Korean Indenpendence Party)の支配下にあるが、その勢力は不明
E左翼の朝鮮民族革命党(National Revolutionary Party)の方が、満州において支持者が多い。

なお、tjo so-wangは、漢字では趙素ミです。ガウス大使は、tjosowang,tjo so-wang等と表記していますが、朝鮮人名の昭和初期の英訳表記であり、現在では一般的ではありません。Joe so-angとも表示でき、 趙素ミ自身は、自分の名前の英語表記として、Joe so-angと表記しています。

(注)糟谷憲一他「朝鮮現代史」P217より。趙素ミは、帰国しています。
「中国で臨時政府の活動を進めていた金九らは、米軍政に臨時政府の承認を要求したものの拒否され、1945年11月23日個人の資格で帰国した。金九は趙素ミとともに韓国独立党を組織した。彼らは、 臨時政府の法統を訴え、趙素ミが唱える三均主義(政治・経済・教育の均等)に立脚する民主共和制と計画経済を主張した」

私が思うに、上記のガウス大使の回答中、

ABからして(英語原文ご参照)、1941年末において、中国重慶には、臨時政府と名乗る程の組織は、なかったと考えざるを得ません。
何故なら、現地の大使が調べてすら、「大韓民国臨時政府の組織」が直ぐに判明していないからです。通常すぐに、判明するはずです。

例えば、この頃の「いわゆる大韓民国臨時政府」の大統領?は、在日韓国人(帰化者含む)の方々によって当初は書かれた推測されるWikipediaの記事では、金九とされていますが、ガウス大使の返電には、金九の名前すらでてきません。(英語原文ご参照)本国政府の国務長官名の指示に基づき、現地の大使が調べてすら、組織全体=大韓民国臨時政府の代表者名がガウス大使の返電に表記されていないのです。

また、大韓民国臨時政府は、1945年まで朝鮮本国には存在しなかった亡命政府ですが、200名以下の朝鮮人しかいない重慶で、常識的には、亡命政府はあり得ないと考えます。
チベット亡命政府は、亡命政府の名に値するかどうかは別として、少なくとも10万以上のチベット人亡命者をバックボーンとしていることと比較すれば、一目瞭然ではないでしょうか?

なお、上記のガウス大使の電信報告中Eが分かりにくいため、筑波大学大学院加納敦子さんの論文から引用しておきます。
大韓民国臨時政府という朝鮮独立運動グループは、朝鮮以外での独立運動グループの一つに過ぎないのだという点に充分ご注意ください。
なお、この論文の結論は、いわゆる光復軍?の功績に関する韓国政府による捏造に近い歴史の曲解を鋭く指摘しています。

「1938 年には中国国民政府は 首都を重慶に移転した。中国国民政府の援助のもの とで中国国内において朝鮮独立運動を展開してい た韓国独立党、朝鮮民族革命党の二派を中心す る朝鮮独立運動家たちも、中国国民政府と共に重 慶へと移動した 。韓国独立党は、大韓民国臨時政府の流れを汲む金九率いる民族主義右派の党で ある一方、朝鮮民族革命党は、金若山(金元鳳) 率いる、より強力な民族主義左派の党であり、両党は互いに対立していた 。重慶には、中国国民 政府の支援を受け、この二派を中心とする韓国独 立運動家とその家族たち 300 人程度が滞在して いた。

重慶でも、両党の対立は続いていた。「印緬戦 区工作隊」の副隊長である文応国の証言によれば、 臨時政府は重慶で揚子江と嘉陵江が交差するとこ ろの頂点に位置した。そして、揚子江の一方の側 には韓国独立党を中心とした臨時政府の要人たち が、河を挟んで反対側には朝鮮民族革命党に関係 する者たちが暮らし、揚子江を隔てて両党は互い に昼夜反目していたという(資料調査室編 1986: 106-107)。中国国民政府が金九と金若山の双方を 支援し、援助金を渡していたことが、両党の対立 をより熾烈にした 」


上記画像のように、その後、趙素ミ(tjo so-wang)は、アメリカ大使館を訪ね、ガウス大使本人と直接面談し、ガウス大使は、書面で、1942年2月22日に本国政府に報告しています。

この本国政府への報告中、私が最重要と考えるのは、上の画像の赤線部分です。

赤線部分の趣旨は、

「満州における朝鮮独立(運動)グループに関する趙素ミ(tjo so-wang)氏への質問は、うまくはぐらかされた。そして、私(=ガウスアメリカ大使)は、”臨時政府”とそのような(朝鮮以外の)諸グループとの間の関係について、いかなる明確かつ実際的な言明をも趙(tjo) 氏から得ることができなかった。」

wikipedia等で、1940年以降重慶にあったとされている大韓民国臨時政府は、1942年時点では、当時アメリカワシントンで活動していた李承晩を別とすれば、満州(朝鮮人が多く、3・1運動の後、多くの活動家が逃げた。韓国の成均館大学教授の論文P23によれば、約48万人)や他の地域(ソビエト領内=沿海州の朝鮮人で前記P24によれば、約9万名。ただし、その後ほぼ全員がカザフスタンへ強制移住)とはほとんど全く無関係に、そして、孤立した状態であったと考えざるを得ないのです。

また、大韓民国臨時政府と朝鮮本国の独立運動活動家との連携を直接示す内容やそれを示唆する内容が、1945年8月15日に至るまで、公表されたアメリカ政府の正式外交記録には、一切ありません。(決定的に重要です。この点についてのアメリカ政府の終戦前見解は、下記ご参照。)

1940年当時日本領であった朝鮮本国と交戦国であった中国との連絡は、一般人には極めて困難で、朝鮮本土にいた人々は、「大韓民国臨時政府が、重慶にあった」ことなど、そもそも知りうる手段すらほとんどなかったはずです。朝鮮にいた人々が、「大韓民国臨時政府が、重慶にあった」ことを知ったのは、光復日=1945年8月15日以降であると考えざるを得ず、朝鮮人の方々は、狂喜乱舞されたことでしょう。

この点に関しては、アメリカ政府も当然気づいており、1942年5月1日付のハル国務長官→ガウス大使への指示電信にて、

1942年時点では、


@大韓民国臨時政府(重慶)の承認を延期することが望ましい」と中国政府に伝えよ。(蒋介石が、「承認が望ましい」と感じたためこの指示が冒頭になりました)
A大韓民国臨時政府(重慶)を含め、いくつかある朝鮮独立運動組織を承認しない理由として、(英語原文を記載しておきます)

you may inform the Chinese authorities that this Government had had no immediate intention of according recognition to any one Korean group in view of such factors as:
(a) the lack of unity existing among Korean groups interested in achieving Korean independence
and
(b) the probability that groups now existing outside of Korea have little association with the Korean population in Korea.

としています。

(a) は、単に大韓民国臨時政府(重慶)の他にもいくつかの朝鮮人の朝鮮独立運動組織があり、「まとまりがない」としているだけです。

(b) の趣旨は、

「朝鮮以外(の地)で、現時点で、存在している諸グループは、朝鮮の住民とはほとんど関係がないという可能性」です。

そして、これら朝鮮人の朝鮮独立運動組織のうち、地理的に、朝鮮本国から最も遠かったのが、重慶にあった大韓民国臨時政府です。

また、上記の本国政府指示は、事実上、その前のガウス大使の本国への下記の報告を元に同大使に指示したものに過ぎません。

the inability of any one of their organizations to show that it has a real following among the Koreans in the homeland.
趣旨は、
「(大韓民国臨時政府をはじめとする)朝鮮独立運動諸組織のいずれもが、母国(=朝鮮)における朝鮮人の間で、真の支持者を有していることを示すことができない」

なお、最終的なアメリカ・イギリス政府の見解は、「当地(中国の重慶)のグループ及び朝鮮本土以外のいかなるグループも、非常に長い年月の間一人として朝鮮にいなかったからして、朝鮮の人々を真に代表するものではなかった」ですが、その理由は、上記(b) であり、可能性ではなく真実でした!

ご参考までに、1945年3月1日付329電信(ガウス大使→アメリカ国務省)によれば、「アメリカの飛行機からリーフレットを朝鮮本土にばらまく」ことを趙素ミ(tjo so-wang)氏は、電話でガウス大使へ提案しています。3・1運動の後、日本以上に、警察による締め付けの厳しかったと思われる朝鮮本土の人々が、「大韓民国臨時政府が、重慶にある」ことを知りうる唯一の方法でしょう。
そして、本国にいる人々が、亡命政府があること自体すら知らないのであれば、常識的には、亡命政府などあり得ないのではないでしょうか?ほとんどの中国のチベット人の方々は、チベット亡命政府の存在を知っているはずです。

また、日本の朝鮮支配と朝鮮独立運動に焦点をあてた韓国人の歴史学者の論文(P23)ですら、次のような苦しい記述をせざるを得ない状況であったのです。

「苛酷な官憲統治下において独立運動は徹底した弾圧の対象だったのみで、そのため に独立とつながる政治活動が国内では極めて制限されていた。(中略)持続的で組織的な独立運動は大部分が国外で展開された。国外独立運動は国内と連結した場合が多かったが、そうでない場合も少なくなかった。あるいは、連結されていたとはいえ、共産主義者の地下闘争を外すれば、ほとんど全てが国外中心で、一時的な場合が多かった。」


(ご参考@)


(ご参考A) 「韓国における朝鮮人特攻隊員像の変容」(立命館産業社会論集第52巻第4号)P70より、引用。権 学俊 立命館大学教授の論文、お名前から在日朝鮮人の方でしょう。 (ただし、赤字強調は私が行いました)残念ながら、権教授の言う「臨時政府をはじめとする海外で独立運動を行った人々」の数は、少数であったでしょうが、世界最強の反日国家韓国の 対日観形成過程がよくわかります

P70「 解放後、臨時政府をはじめとする海外で独立運動を行った人々に対する記念行為も重要な政治的意味を持っており、朝鮮独立を志向した民族主義的な思想や運動が政治的な正当性を付与したのは 自然な過程であった。そして、植民地時代の反日闘争・独立運動が韓国社会の戦時中の公式的な記憶として定着し,韓国の歴史が「再生産」されたため, 朝鮮人特攻隊員の存在は公的な歴史から意図的に抹消され,追放されたのである。特に初代大統領の李承晩や軍事政権時代の朴正熙などは,国家アイデン ティティの樹立のために反共・反日主義のイデオロギーを徹底的に利用した。このイデオロギーが韓国社会の支配的な役割を果たしたのは間違いない。 (途中略)韓国では、長年にわたり歴史教科書は、国定の一種に限られていたが、その内容は植民地時代の抑圧動員被害や数多くの反日闘争・独立運動に関する記述が多くを占め、民族主義・反日等 政治的意図が反映された代物であった

当時、中国政府のあった重慶は、上図の位置にあり、重慶(敵国の首都)から朝鮮本土(日本領)に、当時の主たる通信手段である直接の手紙や人による直接訪問・面談が、不可能に近いほど困難であったことがお判りいただけるでしょう。重慶にあったとされているいわゆる大韓民国臨時政府と朝鮮本土の直接連絡=連携は、そもそも、客観的に極めて困難でした。
重慶→スイス等他国→朝鮮のルート(逆も同じルート)で、手紙を送付する手段しかありませんが、アメリカ政府公式外交記録上は、連携の形跡は見当たりません。
なお、僅かに、重慶と朝鮮との間接連絡を示唆するものとしてこの記録のみがあります。



上記の注の赤線部分の趣旨は、次のとおりです。

「当地(中国の重慶)のグループ及び朝鮮本土以外のいかなるグループも、非常に長い年月の間一人として朝鮮にいなかったからして、朝鮮の人々を真に代表するものではなかった」

上記は、1945年2月の当時重慶にいたアチソン国務次官補の電信の注ですが、私には、上記の点が本当に決め手であると思われます。

朝鮮本土はいうに及ばず、満州、その他の中国各地で全く日帝(朝鮮人の表現)と戦うことなく、戦おうとすらせず、李承晩のごとく安全なアメリカや、趙素ミ(tjosowang)のごとく戦地ではなかった中国の重慶で、中国政府等の庇護の元、「口先だけで、のうのうと安全な日々を過ごした誠に恥ずべき連中=大韓民国臨時政府のメンバー」なのではないでしょうか?例えば、ガウス大使の本国政府への電信には、全体を通じて、趙素ミ(tjosowang)氏への嫌悪感を漂わせる表記がいくつもあり、当然でしょう。

少なくとも、私たち日本人にはそう思えるのです。私たち日本人とあなた方の決定的な差です。
そして、韓国憲法前文には、「大韓民国臨時政府の法統」と誇らしげに書かれていますね!?!?


大韓民国臨時政府 1943年〜終戦まで

 




上記原文にあるように、私見とことわりつつも、ガウス大使は、Korean Provisional Government(朝鮮臨時政府と直訳します。ここでは、大韓民国臨時政府ではないのです。Republicが消えています)は、ノルウェー・ベルギー・オランダのような亡命政府ではなかったと明言し、むしろ、朝鮮独立運動であるとしています。

現地にいて実情を良く知るガウス大使の誠に常識的な見解であり、大韓民国臨時政府=長年にわたり朝鮮にいなかった少数の活動家による朝鮮以外での朝鮮独立運動と言い切ってよいと考えます。

なお、赤線部分の趣旨は、
「大韓民国臨時政府の承認問題に関しては、 (趙素ミ=Tjosowang=大韓民国臨時政府の外務大臣と称していたに対し、)本国政府の指示はないものの、私の個人的見解では、大韓民国臨時政府は、ノルウェー・ベルギー・オランダのような亡命政府ではなく、むしろ朝鮮独立運動であると返答した」


では、ガウス大使のこの私見に対する本国政府の回答は?




上記原文にあるように、ガウス大使の私見は、本国政府国務省のフル承認を得ています。



再度、上記赤線部分の趣旨を書きます。

「当地(中国の重慶)のグループ及び朝鮮本土以外のいかなるグループも、非常に長い年月の間一人として朝鮮にいなかったからして、朝鮮の人々を真に代表するものではなかった」

私は、上記英文を初めて読んだ際、変な表現ですが、「さも貴様らには、大韓民国臨時政府の承認云々を言い出す資格などないのだ!」と言いたげだな?と感じました。
Telegram not printedとあり、30年経過で機密解除はされているとはいえ、プリントされなかった電信(4月2日午後2時、番号560)には、外交儀礼上、公表すべきではないと判断した内容が含まれていたと推測します。そして、恐らく、電信の内容は、私が感じたものと同じでしょう。

朝鮮本土外のどのグループも真に朝鮮の人々の代表ではないことこそが、朝鮮臨時政府(大韓民国臨時政府)がアメリカ・イギリスなど他国によって承認されなかった真の原因であると私は考えます。繰り返しになりますが、当時日本領であった朝鮮本国と交戦国であった中国(宣戦布告なしのため1932年以降交戦国とします)・アメリカ(1941年以降交戦国)との連絡は、一般人には極めて困難で、朝鮮本土にいた人々は、「大韓民国臨時政府が、重慶にあった」ことなど、そもそも知りうる手段すらほとんどなかったはずです。ですから、「朝鮮の人々の代表ではないこと」は、自明なのではないでしょうか?


上記原文赤線部分の趣旨は、

「注意されるべきであるのは、イギリス外務省は、大韓民国臨時政府の承認を熟考すべき当面の理由はないという点について、アメリカ国務省に同意するということである。」

これが、終戦=光復日=1945年8月15日までの最終結論です。


なお、終戦後、大韓民国臨時政府は、朝鮮の人々に初めて知られるようになり、李承晩その他が、「臨時政府としての承認」を求め盛んに運動したようですが(言及の価値無しと考えます)最後まで、その庇護者であった中国を含めてアメリカ・イギリス等他国からは、臨時政府として承認されませんでした。当然であると考えます。

そして、私は一人の日本人として、できることを考え、英文Wikipediaの大韓民国臨時政府の記事に、上記のアメリカの公式外交記録に基づき、重慶における大韓民国臨時政府は、事実上は、単なる独立運動グループに過ぎない旨を繰り返し投稿していますが、韓国人によって削除される現状です

@2018年7月15日(7月25日に韓国人によって削除)
A2018年7月28日(同じ日に韓国人によって削除)
B2018年8月2日(同様に削除)
C2020年8月18日追記

なお、光復軍と称するバカバカしいと言い切れる集団について、筑波大学大学院のこの論文が詳しいです

日本人から見て、「北朝鮮は、狂っている」と誰でも思うでしょう。そして、大韓民国臨時政府を確実な資料で直接調べると「韓国も狂っている」というのが、私の率直な印象です。

しかし、歴史的事実を歪め、「歴史を拡張解釈」することは許されるべきではないでしょう。

韓国人が、「そう思いたいなら、そう思わせておけば良い」は、即ち、日本国内の北朝鮮人が「そう思いたいなら、そう思わせておけば良い」に等しいです。

黙視したままでいることは、黙認です。認めたことになります。

「そう思いたいなら、そう思わせておけば良い」=黙認 こそが、朝鮮総連が、今日に至るまで、日本国内においてその組織を保持しえた根本原因であり、朝鮮半島有事の際の朝鮮総連の危険性がもっと認識されてしかるべきであると強く考えます。


終わり。



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