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この記事は、1919年〜1948年まで存在していたされている大韓民国臨時政府について、下記のアメリカ政府の正式外交記録に基づき書きました。

@米国国立公文書館のウェブサイトでの検索
A公表された外交資料(30年で機密指定解除)を年別・国別・テーマ別に整理し、作成された外交関係公表資料ライブラリー(アメリカの2つの大学が協力して作成)

上記を読んだ私の率直な印象は、大韓民国臨時政府は、「歴史の拡張解釈」によって創出されたものに過ぎず、長年にわたり朝鮮にいなかった少数の活動家による朝鮮以外での朝鮮独立運動であるという点につきます。

「我々朝鮮人は、優れた民族だ!だからこそ、日帝支配後(1910年以降)も、ちゃんと我々の臨時政府は、海外に存続し続けていたのだ!」

という韓国人の方々の「思い=朝鮮語のハン」が創出した歴史である大韓民国臨時政府について、確実な1次資料による検証の一助になれば幸いです。

なお、朝鮮語のハンは、通常は、「恨み」と訳されますが、私は「思い」と訳します。また、民団系在日朝鮮人の方々に、上記の正式外交資料を是非読まれることを特にお勧め申し上げます。


大韓民国臨時政府 1941年まで



大韓民国臨時政府は、通常は、1919年中国上海で設立されたとされており、韓国政府の正式見解でもあります。

しかしながら、米国国立公文書館のウェブサイトで、”Provisional Government of the Republic of Korea"にて検索又は"Korean Provisional Government"にて検索しても、現在確認できる範囲では、アメリカ政府は、大韓民国臨時政府が1919年中国上海で設立されたことなど把握していません。

なお、興味深いのは、主として韓国側資料に依拠した書籍を元に書かれたWikipediaの大韓民国臨時政府では、1933年当時の大韓民国臨時政府の大統領?は、李東寧(1933年9月まで)及び梁起鐸(1933年10月以降)とされていますが、李承晩は、1933年時点で、自らを大韓民国臨時政府の大統領と称している(←リンク先は、米国国立公文書館のウェブサイトの該当ページ)状態であったことです。

そして、アメリカ政府の公式外交記録で、いわゆる”大韓民国臨時政府”が、初めて登場するのは、20年以上経過した1941年12月22日以降です。


大韓民国臨時政府 開戦から1942年まで


1941年12月22日、太平洋戦争開戦直後に、当時のハル国務長官は、次のように、その当時は中国重慶にあったアメリカ大使館のガウス大使に対し、電信にて指示しています。
下記は、画像化されたものであり、画像をクリック・タップで、元の米国国立公文書館のウェブサイトの該当ページを表示します
(以下同じであり、原文の部分引用等は、画像リンク先の米国国立公文書館のウェブサイトからコピペしてください)


上記の要旨は、次のとおりです。

中国重慶にあると主張されている、いわゆる大韓民国臨時政府について下記を調べよ。
@いわゆる大韓民国臨時政府の支持者の広がりと組織
A武装した志願者の数と作戦範囲
B朝鮮本土及び満州に存在しているかもしれない抗日勢力との連携の有無

上記の本国指示に対し、ガウス大使は、電信で下記のように回答しています。


上記の要旨は、次のとおりです

@(いわゆる大韓民国臨時政府についての重慶での)現在の動向は、熱烈なものではない。
A臨時政府の支持者と組織についてはわからない
B重慶付近にいる朝鮮人は、200人を超えていない
C中国軍と共に、武装した朝鮮人志願兵の小さな一つの部隊がある
Ctjo so wang=趙素ミが、重慶での代表であり、外務大臣を名乗っている
Dいわゆる大韓民国臨時政府は、穏健な朝鮮独立党(Korean Indenpendence Party)の支配下にあるが、その勢力は不明
E左翼の革命党(National Revolutionary Party)の方が、満州において支持者が多い。

なお、tjo so-wangは、漢字では趙素ミです。ガウス大使は、tjosowang,tjo so-wang等と表記していますが、朝鮮人名の昭和初期の英訳表記であり、現在では一般的ではありません。Joe so-angとも表示でき、趙素ミ自身は、自分の名前の英語表記として、Joe so-angと表記しています。

私が思うに、上記のガウス大使の回答中、

ABからして(英語原文ご参照)、1941年末において、中国重慶には、臨時政府と名乗る程の組織は、なかったと考えざるを得ません。
何故なら、現地の大使が調べてすら、「大韓民国臨時政府の組織」が直ぐに判明していないからです。通常すぐに、判明するはずです。

例えば、この頃の「いわゆる大韓民国臨時政府」の大統領?は、在日韓国人(帰化者含む)の方々によって当初は書かれた推測されるWikipediaの記事では、金九とされていますが、ガウス大使の返電には、金九の名前すらでてきません。(英語原文ご参照)本国政府の国務長官名の指示に基づき、現地の大使が調べてすら、組織全体=大韓民国臨時政府の代表者名がガウス大使の返電に表記されていないのです。

また、大韓民国臨時政府は、1945年まで朝鮮本国には存在しなかった亡命政府ですが、200名以下の朝鮮人しかいない重慶で、常識的には、亡命政府はあり得ないと考えます。
チベット亡命政府は、亡命政府の名に値するかどうかは別として、少なくとも10万以上のチベット人亡命者をバックボーンとしていることと比較すれば、一目瞭然ではないでしょうか?


上記画像のように、その後、趙素ミ(tjo so-wang)は、アメリカ大使館を訪ね、ガウス大使本人と直接面談し、ガウス大使は、書面で、1942年2月22日に本国政府に報告しています。

この本国政府への報告中、私が最重要と考えるのは、上の画像の赤線部分です。

赤線部分の趣旨は、

「満州における朝鮮独立(運動)グループに関する趙素ミ(tjo so-wang)氏への質問は、うまくはぐらかされた。そして、私(=ガウスアメリカ大使)は、”臨時政府”とそのような(朝鮮以外の)諸グループとの間の関係について、いかなる明確かつ実際的な言明をも趙(tjo) 氏から得ることができなかった。」

wikipedia等で、1940年以降重慶にあったとされている大韓民国臨時政府は、1942年時点では、確実に、当時アメリカワシントンで活動していた李承晩を別とすれば、満州(朝鮮人が多く、3・1運動の後、多くの活動家が逃げたと推定されます)や他の地域(ソビエト領内の朝鮮人で前記と同じ)とはほとんど全く無関係に、そして、孤立した状態であったと考えざるを得ないのです。

また、大韓民国臨時政府と朝鮮本国の独立運動活動家との連携を直接示す内容やそれを示唆する内容が、1945年8月15日に至るまで、公表されたアメリカ政府の正式外交記録には、一切ありません。(決定的に重要です。この点についてのアメリカ政府の終戦前見解は、下記ご参照。)

1940年当時日本領であった朝鮮本国と交戦国であった中国との連絡は、一般人には極めて困難で、朝鮮本土にいた人々は、「大韓民国臨時政府が、重慶にあった」ことなど、そもそも知りうる手段すらほとんどなかったはずです。朝鮮にいた人々が、「大韓民国臨時政府が、重慶にあった」ことを知ったのは、光復日=1945年8月15日以降であると考えざるを得ず、朝鮮人の方々は、狂喜乱舞されたことでしょう。

なお、1945年3月1日付329電信(ガウス大使→アメリカ国務省)によれば、「アメリカの飛行機からリーフレットを朝鮮本土にばらまく」ことを趙素ミ(tjo so-wang)氏は、電話でガウス大使へ提案しています。3・1運動の後、日本以上に、警察による締め付けの厳しかったと思われる朝鮮本土の人々が、「大韓民国臨時政府が、重慶にある」ことを知りうる唯一の方法でしょう。
そして、本国にいる人々が、亡命政府があること自体すら知らないのであれば、常識的には、亡命政府などあり得ないのではないでしょうか?ほとんどの中国のチベット人の方々は、チベット亡命政府の存在を知っているはずです。

(ご参考@)


(ご参考A) 「韓国における朝鮮人特攻隊員像の変容」(立命館産業社会論集第52巻第4号)P70より、引用。権 学俊 立命館大学教授の論文、お名前から在日朝鮮人の方でしょう。 (ただし、赤字強調は私が行いました)残念ながら、権教授の言う「臨時政府をはじめとする海外で独立運動を行った人々」の数は、少数であったでしょうが、世界最強の反日国家韓国の 対日観形成過程がよくわかります

P70「 解放後、臨時政府をはじめとする海外で独立運動を行った人々に対する記念行為も重要な政治的意味を持っており、朝鮮独立を志向した民族主義的な思想や運動が政治的な正当性を付与したのは 自然な過程であった。そして、植民地時代の反日闘争・独立運動が韓国社会の戦時中の公式的な記憶として定着し,韓国の歴史が「再生産」されたため, 朝鮮人特攻隊員の存在は公的な歴史から意図的に抹消され,追放されたのである。特に初代大統領の李承晩や軍事政権時代の朴正熙などは,国家アイデン ティティの樹立のために反共・反日主義のイデオロギーを徹底的に利用した。このイデオロギーが韓国社会の支配的な役割を果たしたのは間違いない。 (途中略)韓国では、長年にわたり歴史教科書は、国定の一種に限られていたが、その内容は植民地時代の抑圧動員被害や数多くの反日闘争・独立運動に関する記述が多くを占め、民族主義・反日等 政治的意図が反映された代物であった

当時、中国政府のあった重慶は、上図の位置にあり、重慶(敵国の首都)から朝鮮本土(日本領)に、当時の主たる通信手段である直接の手紙や人による直接訪問・面談が、不可能に近いほど困難であったことがお判りいただけるでしょう。重慶にあったとされているいわゆる大韓民国臨時政府と朝鮮本土の直接連絡=連携は、そもそも、客観的に極めて困難でした。
重慶→スイス等他国→朝鮮のルート(逆も同じルート)で、手紙を送付する手段しかありませんが、アメリカ政府公式外交記録上は、連携の形跡は見当たりません。
なお、僅かに、重慶と朝鮮との間接連絡を示唆するものとしてこの記録のみがあります。



上記の注の赤線部分の趣旨は、次のとおりです。

「当地(中国の重慶)のグループ及び朝鮮本土以外のいかなるグループも、非常に長い年月の間一人として朝鮮にいなかったからして、朝鮮の人々を真に代表するものではなかった」

上記は、1945年2月の当時重慶にいたアチソン国務次官補の電信の注ですが、私には、上記の点が本当に決め手であると思われます。

朝鮮本土はいうに及ばず、満州、その他の中国各地で全く日帝(朝鮮人の表現)と戦うことなく、戦おうとすらせず、李承晩のごとく安全なアメリカや、趙素ミ(tjosowang)のごとく戦地ではなかった中国の重慶で、中国政府等の庇護の元、「口先だけで、のうのうと安全な日々を過ごした誠に恥ずべき連中=大韓民国臨時政府のメンバー」なのではないでしょうか?例えば、ガウス大使の本国政府への電信には、全体を通じて、趙素ミ(tjosowang)氏への嫌悪感を漂わせる表記がいくつもあり、当然でしょう。

少なくとも、私たち日本人にはそう思えるのです。私たち日本人とあなた方の決定的な差です。
そして、韓国憲法前文には、「大韓民国臨時政府の法統」と誇らしげに書かれていますね!?!?


大韓民国臨時政府 1943年〜終戦まで

 




上記原文にあるように、私見とことわりつつも、ガウス大使は、Korean Provisional Government(朝鮮臨時政府と直訳します。ここでは、大韓民国臨時政府ではないのです。Republicが消えています)は、ノルウェー・ベルギー・オランダのような亡命政府ではなかったと明言し、むしろ、朝鮮独立運動であるとしています。

現地にいて実情を良く知るガウス大使の誠に常識的な見解であり、大韓民国臨時政府=長年にわたり朝鮮にいなかった少数の活動家による朝鮮以外での朝鮮独立運動と言い切ってよいと考えます。

なお、赤線部分の趣旨は、
「大韓民国臨時政府の承認問題に関しては、 (趙素ミ=Tjosowang=大韓民国臨時政府の外務大臣と称していたに対し、)本国政府の指示はないものの、私の個人的見解では、大韓民国臨時政府は、ノルウェー・ベルギー・オランダのような亡命政府ではなく、むしろ朝鮮独立運動であると返答した」


では、ガウス大使のこの私見に対する本国政府の回答は?




上記原文にあるように、ガウス大使の私見は、本国政府国務省のフル承認を得ています。



再度、上記赤線部分の趣旨を書きます。

「当地(中国の重慶)のグループ及び朝鮮本土以外のいかなるグループも、非常に長い年月の間一人として朝鮮にいなかったからして、朝鮮の人々を真に代表するものではなかった」

私は、上記英文を初めて読んだ際、変な表現ですが、「さも貴様らには、大韓民国臨時政府の承認云々を言い出す資格などないのだ!」と言いたげだな?と感じました。
Telegram not printedとあり、30年経過で機密解除はされているとはいえ、プリントされなかった電信(4月2日午後2時、番号560)には、外交儀礼上、公表すべきではないと判断した内容が含まれていたと推測します。そして、恐らく、電信の内容は、私が感じたものと同じでしょう。

朝鮮本土外のどのグループも真に朝鮮の人々の代表ではないことこそが、朝鮮臨時政府(大韓民国臨時政府)がアメリカ・イギリスなど他国によって承認されなかった真の原因であると私は考えます。繰り返しになりますが、当時日本領であった朝鮮本国と交戦国であった中国(宣戦布告なしのため1932年以降交戦国とします)・アメリカ(1941年以降交戦国)との連絡は、一般人には極めて困難で、朝鮮本土にいた人々は、「大韓民国臨時政府が、重慶にあった」ことなど、そもそも知りうる手段すらほとんどなかったはずです。ですから、「朝鮮の人々の代表ではないこと」は、自明なのではないでしょうか?


上記原文にあるように、「朝鮮臨時政府の承認を熟考すべき当面の理由」すらなかったのです。

赤線部分の趣旨は、

「注意されるべきであるのは、イギリス外務省は、大韓民国臨時政府の承認を熟考すべき当面の理由はないという点について、アメリカ国務省に同意するということである。」

承認すべき理由がないのではなく、承認を熟考すべき理由すらなかったのです

これが、終戦=光復日=1945年8月15日までの最終結論です。


なお、終戦後、大韓民国臨時政府は、朝鮮の人々に初めて知られるようになり、李承晩その他が、「臨時政府としての承認」を求め盛んに運動したようですが(言及の価値無しと考えます)最後まで、その庇護者であった中国を含めてアメリカ・イギリス等他国からは、臨時政府として承認されませんでした。当然であると考えます。

そして、私は一人の日本人として、できることを考え、2018年7月15日午後5時頃英文Wikipediaの大韓民国臨時政府の記事に、次の内容を追加しました。何故、日本語版に追記しないのかと思われるでしょうが、記述に一貫性を全く欠く酷い内容の日本語版では、確実な1次資料に基づく歴史的事実を追加しても、すぐに在日朝鮮人(朝鮮総連系を除き、帰化者を含む)の方々の手によって、ただちに削除され時間の無駄にすぎないと考えたからです

However, please strongly keep in mind

that “Neither the group here nor any group outside of Korea were really representative of the Korean people as none of them had been in Korea for a great many years.”(footer notes, The Chargé in China (Atcheson) to the Secretary of StateChungking, April 9, 1945—11 a.m.);

that "I had no instructions from my Government but that my personal view was that the “Korean Provisional Government” was not a Government in exile, such as the Governments of Norway, Belgium and the Netherlands, but rather a Korean independence movement"( The Ambassador in China (Gauss) to the Secretary of State Chungking, No. 2583 May 19, 1944.);

and that "The views and opinions which you expressed to the Korean “Foreign Minister” (your despatch no. 2583, dated May 19, 1944) have the full approval of the Department." (The Secretary of State to the Ambassador in China (Gauss)Washington, June 12, 1944);

また、在日朝鮮人(朝鮮総連系を除き、帰化者を含む)の手による削除の可能性が少ないと考えられる日本語Wikipediaの記事(光復軍)に2018年7月17日午後5時30分頃、下記内容を追記しました。

「なお、アメリカ政府の公式外交記録(1945年2月5日)にて、蒋介石中国政府要人の発言として、当時中国重慶には2000名もの日本軍の朝鮮人志願兵捕虜が存在し、いわゆる"大韓民国臨時政府"がこれら朝鮮人志願兵捕虜と連携していたと明記されていることから、上記中国政府要人の発言が真実であるならば、光復軍兵士の多くは、「転向」した朝鮮人志願兵捕虜であったことを強く示唆している。 」(注)

(注)該当箇所の英語原文は、次のとおりであり、蒋介石中国政府高官は、powsやprisoners of war という通常は捕虜を示す言葉を使用せず、captured Korean troops としており、当時の捕虜に関する国際的な取り決めの対象外として扱っているのだとアメリカ政府に言いたかったようです。しかし、実態上は、確実に捕虜でしたので、wikipediaに追記する際には、捕虜と書きました。

Mr. Shao stated that the Korean Provisional Government has now undertaken a program along the lines of Mr. Shao’s suggestions and that among other things they were working with captured Korean troops in Chungking who number about 2,000, with a view to training them for duties as underground agents.

果たして私が追記した内容は、いつまで削除されずに残るでしょうか?
在日朝鮮人(朝鮮総連系を除き、帰化者を含む)や在米朝鮮人(市民権取得者含む)は、いつ削除するのでしょうか?注視したいと考えます。

しかし、歴史的事実を歪め、「歴史を拡張解釈」することは許されるべきではないでしょう。

韓国人が、「そう思いたいなら、そう思わせておけば良い」は、即ち、日本国内の北朝鮮人が「そう思いたいなら、そう思わせておけば良い」に等しいです。

「そう思いたいなら、そう思わせておけば良い」こそが、朝鮮総連が、今日に至るまで、日本国内においてその組織を保持しえた根本原因であり、朝鮮半島有事の際の朝鮮総連の危険性がもっと認識されてしかるべきです。


終わり。



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